東が丘保存会の由来


祭囃子は江戸時代(享保年間1716〜1736)、武州葛飾郡の香取大明神(現在の葛西神社)の神主能勢環(のせたまき)が江戸神楽を元に編み出しました。能勢環は芸能にすぐれた文化人で、神霊を慰める為、神楽囃子の調子を取り入れた和歌囃子を作り出し、自作の和歌を唄いながら笛太鼓ではやしたてる五人ばやしを若者に教え、これを葛西囃子と名づけました。これが、しだいに盛んになり、付近の農村から江戸に伝わりました。

 宝暦年間(1751〜1763)、当時の関東代官伊奈半左衛門忠順がこの葛西囃子を農村娯楽と敬神のため[五穀豊穣の奉納囃子]と呼ばせ祭礼行事とさせたので、代官様のお声掛りと当事の素朴な民情に適し忽ち江戸中に大流行し、深川、神田、三輪方面から目黒に及びました。

 この葛西囃子を元に神田囃子、目黒囃子などいくつかの囃子ができたそうです。目黒には文化文政時代に伝わったと言われています。江戸の祭り囃子の古格を踏まえながら、その上に目黒独特の郷土色を創り出したのが目黒囃子で、歴史上価値があり、かつ地域的特色を顕著に示す民族芸能として注目されます。

 目黒区内では自由が丘、緑ヶ丘を中心とした「自緑会(昭和24年結成、熊野神社)」、碑文谷地区を中心とした「門前ばやし(昭和30年結成、碑文谷八幡)」、東が丘、八雲を中心とした「東が丘保存会(昭和40年結成、氷川神社)」があります


20011.9氷川神社

東が丘保存会について

昭和8年頃には芳窪(現東が丘)において囃子の演奏をしていました。

昭和14年頃、戦争のために中断。その後、小杉勝金(明治35年4月生まれ)、根岸重雄(明治36年2月生まれ)、佐藤もと子、亀井謙吉、根岸元美、須藤貞雄各氏の協力により昭和40年9月に26年振りに当地に復活させました。

平成2年には目黒区の
無形民俗文化財に指定されています。

根岸重雄(故)と小杉勝金(故)の指導により後継者の育成と保存に努めました。現在では、氷川神社の祭礼を始めとして、目黒区の行事や各種イベント、結婚式、目黒雅叙園での正月公演、デイホーム等への慰問、小学校の授業参加等と目黒区内を中心に活動を続けています。

また、平成6年に活動を再開した上目黒保存会(宿山地区)とは相互協力しています。


2004.3.7芸術劇場


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